先週から、私の研修医時代の話を紹介しております。昨日は別ニュースでお休みさせていただきましたが、今日は引き続き、卒後2年目から過ごした国立岩国病院(通称:国病)での私の研修医時代の話をしたいと思います。
先週もお話ししましたが、私が配属された麻酔科のミッションは手術の麻酔とICUと救急、これらすべてを4人で担当する体制でした。透析や血漿交換、さらにはECMOや人工心肺セットアップなどの勉強もさせていただきました。そのため、手術部やICUやERの皆さん、外科や内科のチーム、消防隊などなど、飲み会は頻回にありました。また、多くのドクターが官舎に入っていましたので(研修医は全員官舎)、研修医同士の飲み会のみならず、ご家族で官舎におられる先生に釣った魚を料理してもらったりして、病院関係者がワンチームのような感じでした。
ある時、救急で運ばれてきた若い患者を救命できないことがありました。その主治医だった同期の内科研修医がめちゃくちゃ落ち込んでいたので、「人生の流れを変えよう!」と二人でやったこともないスノボーにチャレンジすることにしました。早速、その日5時ピタで車を飛ばして広島でボードを購入、そのまま瑞穂スキー場ナイターへ行きました。装着もできない状況でリフトに乗ったものの滑れるはずがありません。ずっと下まで転びっぱなしでメガネも壊れるアクシデント。当時はネットもYoutubeもありませんでしたので、後日、ビデオを購入して滑り方を見てみると、「そりゃ、転ぶわ」と納得。逆エッジは絶対Xだったんですね苦笑。

写真:新岩国駅からこれを見るとここで過ごした熱い時間を思い出します
米兵やその家族の患者も多く診ましたが、米兵の飲酒運転事故が結構ありましたね。阪神大震災の時はたまたま緊急オペで徹夜明けでした。ちょうどオペが終わりそうだったのですが、結構揺れました。朝7時に開く売店でパン買ってコーヒー牛乳飲みながらオペ室の休憩室で見たテレビに映った神戸の映像はショックでした。確かそこで一緒にテレビを見たのは岩国高校ご出身の外科の田中屋先生、現在は国立岩国病院が移転してできた岩国医療センターの病院長をされておられます。この先生も熱い先生でしたが、私と同じタイガースファンだったことなどもあり、結構可愛がってもらいました。
ある休みの日直中、田中屋先生より「腹にチェンソーが刺さっているのが来る」と緊急オペの要請がありました。体内のどこまで到達しているのか、チェンソーが大き過ぎて検査できないとのこと。臓器や動脈に刺さっている可能性があることから体中の血管という血管にルート入れ、あらかじめ多めの輸液をしておき、急速輸血できるようにも準備して麻酔。チェンソーが抜けないように外科研修医一年目の深澤先生が持ったまま、その手とチェンソーごとイソジンで消毒して、「深澤先生、いち、に、さんでチェンソー抜いてください」と田中屋先生、緊張の一瞬です。「では、いち、に、さん、あれっ?」、なんとチェンソーは肋骨の一番下の部分で止まっており、腹腔や胸腔には全然到達していませんでした。簡単な縫合のみでオペが終了しましたが、皆若いメンバーのみでしたのでヒヤヒヤものでした。

写真:先日、講演で岩国訪問時に食べた今年の初鮎、しかも天然物。
私は岩国で3年以上そんな生活を続け、どっぶりと臨床に浸っておりましたが、最後の年からは香川医科大学の大学院生として今の社会人大学院生のような身分でした。そして、卒後5年目からは一旦臨床を離れ、研究中心の生活が香川で始まりました。1年半の研究トレーニング後、そのまますぐに留学となりますが、「お前が大学院で研究するなんて、わしゃ信んわ」と私が岩国を離れる時に麻酔科のボスだった八塚先生(最近も時々一緒に飲ませていただきます)がおっしゃておられたのが忘れられません。もちろん、私も留学後は実家の病院を継ぐものだ思っておりました。そんな私が基礎研究者になるのですから、人生とは不思議なものです。学生さんも今はいろいろな夢があるのでしょうが、決められたルートなんて絶対ないので、とにかくその一瞬一瞬にベストを尽くしてもらえればと思います。そうすると、きっと楽しい人生の展開が待ってますよ!