2001年9月11日、アメリカのニューヨークで悲惨なテロ事件が発生しました。あれから20年以上経ちますが、その時の悲しみなどの感情は私の心から離れる事はなく、9.11は私にとって特別な日となっています。あの時のことを思い出しながら、犠牲になった方々への哀悼の意を持ち続け、二度とあのような悲惨な犠牲が出ないように平和を願い続けたいと思います。
私は1998年から米国で研究生活をしておりました。米国心臓財団より奨学金をいただき、ルイジアナ州のニューオーリンズにあるチュレーン大学医学部で腎臓や高血圧の研究をしておりました。医者になって5年ほどの麻酔科研修を終え、香川医科大学に戻って大学院に入ってすぐに留学した形となります。留学中の話はまたゆっくりとしたいと思いますが、ちょうど30歳になる前後の最も元気な時間を米国で過ごし、毎日全力で研究に打ち込んでおりました。当時は「24時間働けますか?」とか「4当5落(4時間しか寝ない者は合格し、5時間寝る者は落ちるという意味)」とか「ポスドクが成功するかしないかのボーダーラインは週に100時間の研究時間」などと超ブラックな時代でしたが、学生時代にウィンドサーフィンばかりやって培った体力に物を言わせて、全力で実験しておりました。そんなある日、突然、9.11がやってきました。
写真:香川に戻った後にボスとワシントンの学会で再会した際のワンショット、下の真ん中が私のボスだったNavar先生。腎臓生理学では世界的な権威でしたが、みんなにGabbyの名称で親しまれていました。左上が40歳頃の私、右下は当時、香大医・薬理学の准教授であった人見先生(現在は関西医科大学教授)。
その日、私は朝早くから実験をしておりました。当時はまだインターネットもあまり普及しておらず、ラジカセで音楽をかけながら動物実験をしておりました。そして、実験の休憩時間にコーヒーを入れるためにオフィスのほうに向かうと、ボスとすれ違いました。その時ボスがすれ違いざまに、「おいアキラ、ペンタゴンが攻撃されたらしいぞ!」と言うので、私はまた「また何か訳の変わらないことを言ってる、本当にラテン訛りの英語は意味不明だわ」となどと思っておりましたが、妙に周りがそわそわしている雰囲気を感ました。同僚のチェコ人に「何かあったの?」と聞くと、「お前知らないのか、すぐにニュース見てみろ」と言われましたので、当時なけなしの金で購入したiMacでネット・ニュースを開こうとするのですが全くつながりません(おそらくアクセスオーバー)。そこで、日本サイトであるYahoo Japanにつなげてみるとすぐにつながり、そこで目に入ったのがあのエンパイア・ステートビルから煙が出ている光景でした。これは大変なことだと思いましたが、実験の途中だったのでラボに戻り、動物実験を続けました。その日のその後の記憶はありませんが、おそらく、日本のニュースサイトにアクセスして、エンパイアステートビルが崩落した事、ペンタゴンも攻撃を受けたこと、これがテロであることなどの報道を目にしていたのだと思います。なんとなく、「本当に現実なんだろうか、本当は映画じゃないのだろうか?」と思ったように記憶しております。
私は留学中非常に貧乏でしたので、職場から車で30分ほどの場所的にはニューオーリンズ市から車でミシシッピ川を越えた街に住んでおりました。ところが次の日からその街の様子が一変しました。職場に行き来するのにいくつもの米軍のゲートを通らなければいけなくなったのです。後で知ったのですが、私のアパートの近くに米軍の秘密基地があって、そこに当時のブッシュ大統領が非難して、テロ後の指示をしばらくしていたそうです。とにかくゲートにいる米軍たちもすごい殺気でしたし、テレビはどこをつけてもテロのことばかり、特に被害者の報道ばかりで、しばらくはアメリカ全体が機能不全に陥っていたように記憶しています。
ここでいつものオチ話なのですが、私は岡山大学の麻酔科医局で5年間ほど臨床医をしておりましたが、現在、神戸大学医学部麻酔科教授になっておられる溝渕先生にいつも飲みに連れて行っていただいており、アニキと慕っておりました(今年も神戸大学医学部大学院の英語での講義を要請されております)。その溝渕アニキより国際電話があり、「岡山大学医学部では医学生に海外留学を一定期間させる制度があるので、西山くんの留学先にも女子学生を1人受け入れて欲しい」と依頼を受けました。ボスも女子学生はもちろんwelcomeだとのことだったので、私の研究室で受け入れることになりました。ところが、ちょうど彼女がニューオーリンズに到着する数日前に9.11が生じてしまいました。そして、溝渕アニキより電話があり、「学生は無事か?」との確認がありましたので、私は???「こちらに到着されるのは明後日です」と答えたところ、なんと日本を1週間以上前に出発しており、すでに私の研究室で留学生活を開始していることになっているとの事でした。その後、留学生の親の方からも連絡をいただき、娘がどこにいるのかわからないとのこと大変困惑されておられました。しばらくの間、全米で飛行機の全便が運行中止になっていましたので、当然ニューオーリンズに到着される飛行機もキャンセルとなり、もう何がどうなっているのか。今の時代ではインターネットがあれば簡単に連絡がつきますが、 当時はまだ携帯電話も普及していないような世の中でしたので、とにかく情報が確認できませんでした。しばらくして溝渕アニキより「見つかった」とのこと。アメリカ入りしてしばらくは別の場所で旅行してから私の研究室に来る予定にしていたそうです(大学に内緒)。ご友人とディズニーランドに行っていた時にちょうどテロがあり、パークが閉鎖されて出れなくなって連絡も取れなかったそうです。とにもかくにも無事が確認でき、その後、ニューオーリンズに来ていただいて数週間実験を手伝っていただきました。出身地が香川大学医学部のある三木町であるとの事で、名前も忘れてしまいましたが、大変みんなに好かれる女子学生さんでしたので、また、香川に戻ってきて欲しいと思っております。
このように、私の人生において、9.11は大きなインパクトを残しました。これから年齢を重ねて参りますが、この1日のことを生涯忘れずに残りの人生を生きていきたいと思っております。