3. 11

3月11日、私は被災していませんが、13年前のこの日を忘れることはありません。お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆様の復興が1日も早く進みますことを祈り続けております。

14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震の報道を耳にしたのは、工学部・林キャンパスの事務室でした。その日私は、香川県日本学術振興会から獲得した地域連携拠点事業の予算について協議をしており、会議の後に関わっていただいた工学部の事務の方に御礼を申し上げているところでした。地震の報道を知った事務の方がテレビをつけていたのをたまたま目にしたのが最初です。その時は、「転倒により怪我人数名」といった程度の報道でしたが、突然、ヘリコプターから海上津波が岸に向かっている映像が映し出され、香川県の方が「えらいこっちゃ」とダッシュで県庁に戻られたことをよく覚えています。

やがて津波の被害が明らかとなり、その時は祈ることしかできない自分でしたが、電力会社と取引のある高校の先輩より「原発がやばい」との情報をいただきました。私なりにも情報を集めてみたところ、都内のフランス系の企業がフランス政府の特別機で従業員を非難させている(一部のペットは大阪に避難させたそうです)ことなどを友人に教えてもらいました。その2日後にはヘリコプターで放水する映像を目にして、「おいおい、これはさすがに焼石に水だろう」と大きなショックを受けました。その後のことは皆さんがご存知の通りです。私が香川でできることは大変限られておりましたが、募金や寄付活動などに加え、当時の東北大学の究担当理事であった伊藤貞嘉先生のご指導のもと、遠隔でできるいくつかの復興作業のお手伝いをさせていただきました。

香川県は直接被災しませんでしたが、コンビニは一時、こんな状態になりました。

 

私は昨年10月に香大医の学部長を拝命しましたが、香大医として実施する防災BCPを見直すことを大きな目標と位置付けました。医学部附属病院と一体となり、香川県・三木町をはじめとした自治体、医師会や地元企業らとオール香川で手を組み、南海トラフ地震に対して香大医は何をすべきなのかについて、ある程度シミュレーションし直しておきたいと考えています。来月4月よりワーキングチームを作り、私の任期の残り1年半かけてこれをやり遂げてまいる所存ですので、関係される皆様、何卒お力をお貸しいただけますよう、宜しくお願い申し上げます。